理不尽の国のアリス

世界は歪んでいる。私の認識が歪んでいる。どちらでしょうか。

「東日本大震災追悼」に違和感を感じてしまう。

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これがホントの不謹慎かも。自分はサイコパスかと一瞬疑いました。

 

炎上目的でもなく、ただ淡々と自分の中にある思考を吐き出しただけ。

まぁ、俺なんかが炎上しないかw

死者への不敬のつもりはないです。

 

東日本大震災、3.11がまた過ぎました。

そして、ニュースが「追悼」という言葉に溢れる。

この状況に違和感があります。

 

「追悼」

つい‐とう〔‐タウ〕【追悼】
[名](スル)死者の生前をしのんで、悲しみにひたること。

追悼(ツイトウ)とは - コトバンク

 

そもそも、「死」というのは万人に平等で。

天災で命がなくなる。事故で命がなくなる。人に命が奪われる。

これは、「死者の側」からすれば、違いはないのではないでしょうか?

生命活動の停止。心臓の停止。この絶対的事実。

天寿をまっとうできたかなんて、個人的事情であり、

天災で死を迎えたかどうかなんていう原因論はそこまで関係がないというか。

どんな死因を迎えようと、そこには死者の意識の強制的停止がある。

人生が強制的にシャットアウトされたのは変わりない。

 

そして、追悼は死者の生前を偲ぶという、残された人の感情補完行為であり、

全国レベルで「追悼」とされたら、どれだけ人の感受性は豊かなのだろうかと疑問。

自分は、人をおもんぱかる、シンパシーが欠けているではないか、と思ってしまう。

なぜならば、私は、東北関係の映像を見てもまったく感情が揺れないのです。

東北に足を踏み入れたこともなく、結局はテレビの中の出来事として完結する。

世界で常に起こっている、殺人や交通事故、天災のできごとの一つとして、

単なる情報として、自分の中にインプットしていました。

震災直後に、「不謹慎だ」とか「自粛」とか言う人の気持ちも全く理解できなかった。

自分は震災で何一つ失っていない。その状況で、悲しむことはできない。

 

 

確かに現地の人の悲しみは計り知れません。

故人を悼み、傷ついた感情を癒す必要があります。

 

その反面、東北とは関係ない、何一つ失ってない人が

「追悼」とすると、違和感があるわけです。

なぜ、そんな悲しそうにできるのか。私には分かりません。

そもそも、「死は平等」という観点からだと、毎日が人の命日であり、

常に悼み続ける必要があります。

必要な人だけが、思い偲べばよいと思います。

 

報道社なんかが、こぞって「追悼」とし、記事や映像報道をするのは、

自分は分かってますアピールみたいで。

共感することを押し付けてくるようで。

無関心を決めようとするけども、異質なものを感じています。

 

正直なところ、ニュースで全国的に報道するほど、

被災地以外の人の意識は東北に向いてないと思う。

日常は続くから、自分の明日を生きなければならないから。

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